スタディーツアー顛末記

最初、今回のスタディーツアーの企画をメグから聞かされ現地での手配などの協力を頼まれたときに、実はほぼ断りと言ってもいい返事をさせてもらった。

それは当初メグは学生などを集めて、極力安くカンボジアで特別な経験が出来るツアーがやりたいとの意向だったからです。 はっきり言って価格で勝負するようなツアーならHISに勝てないだろうし、僕は『安くカンボジアに行って色々と経験できるから』というような、低価格に釣られて来るような連中を相手する気にはさらさらなれなかったから。

ところで最近、やたらめったらに国際協力だとか社会貢献だとかボランティアだとかが流行ってますよね〜。正直に言ってこれは別に急に人々が社会愛に目覚めたからでもなんでもなくて、要するに景気が悪くて金がないから、金がかからなくて『自慢』出来ることがしたいという一種の流行だと僕は捉えています。で、そういう連中がいつも当たり前のような顔をして言うのが『僕たちは素晴らしいことをしているのですから、お金は貴方達が出してください』っていうやつだ。

ボランティアに行くのだから旅費を安くしてもらいたい、宿泊費を負けてもらったり特別待遇してほしい。フェアトレードの商品なんだから多少品質が悪くても価格が高くても買ってもらいたい。僕たちは現地で身体を張って支援するので日本で安穏と暮らしている人々は僕達を金銭的に支援するべきだ・・・などなど。

例えば『ボランティアに行くから』という理由で、なんらかのサービスの価格を著しく値下げさせるのも、人を只で手伝わせるのも、本来その人が金を稼ぐことが出来た機会を損失させることになるのだから、実質的にその人に金銭を負担させたことと全く同じです。ということは、ボランティアに行って素晴らしいことをしたと思っている人は、別にボランティアでもなんでもなくて、しっかりとその人達から違う形で金銭的利益を得ていることになる。

はっきり言ってそんなこともわからない連中にカンボジアに来てもらって、子供達の大切な時間を割いてツアー客の思い出作りに付き合わせたり、ダラやフィフォンにあれこれ用意させたり使いっ走りをさせたりしたあげく、「スッゴいいい経験が出来ました。カンボジアの子供達に癒されて本当に感動しました~」とか言って帰ってもらっても、こちらにとってなにも残らない。

せめてこちらに来ていい思いをしたのなら、その分の対価をしっかりと払ってもらわなければならない。これは寄付でも支援でもなんでもなくて、映画を見たり演劇を見たりショーを見に行ったりするのと全く同じです。

楽しくスペシャルな遊びがしたいのなら、特別な体験をしたいのならその分対価が掛かる。ボランティアだろうが重労働だろうが、『短期間の体験』であるかぎり他所様にお邪魔して遊ばせてもらうことに何ら変りは無い。

僕にはこういった思いが強くあるからこそ、メグに対してツアーを手伝う代わりにかなり高いハードルを設けさせてもらいました。正直に言って社会人一年目のメグにとっては、どうして僕がそこまできついことを言うのか良くわからなかったかも知れない。でも、ツアーをやるからには、人からお金を出してもらうからには、そして少なくとも百人以上の人数を巻き込むことになるからには、社会人一年生だからだとか、女の子だからとか言って特別扱いするわけにはいかない。

特にツアーに参加してくれる人々の金銭的な負担をあまり増やしたくないと考えていたメグとは、かなりその部分で意見の食い違いが見られました。僕に「あれにもこれにも金が掛かるよ」って言われるたびに胃が痛い思いをしていたことでしょう(笑)

でも見事その全てのハードルを乗り越え無事にツアーを遂行させ、今まで何人もの訪問者を受け入れてきている僕から見ても、素晴らしい出来だったんじゃ無いかと思えるものに仕上げてみせてくれました。ツアー参加者の皆さんだけではなく、現地で関わった大勢の人みんなが喜び感謝するものになったのは全てメグの頑張りの成果です。

今回ツアー参加してくれたみなさんも、ぜひもう一度メグの頑張りを褒めてやってくださいね!!

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善意のゴミ箱

最近めっきりブログの更新頻度が減っている主な原因であるツイッター(笑) そこに昨日このような書き込みが見られました。
『友達が慈善事業でカンボジアに行っとるんやけど、いらん服(よっぽどビリビリじゃないもの)とか使いかけ可の鉛筆、ペン、紙とかの文房具で譲ってもらえるものがあったら連絡下さい~! あたしも奇抜な服とか、体操服とか作業着まで寄付したけん、ほんっと何でもOK!』

この発言に関しての僕の率直なツッコミを書かせてもらった。 『もはや善意なのかゴミ箱扱いなのかわからんな』と・・・
この僕の意見に対し実際にカンボジアに住んでいる人々の見解は下記のような感じでした。

『自分も以前、チビた鉛筆、タイムカード、三分の二を千切り取ったメモ帳、塗り終わった塗り絵の本、モコモコダウンジャケット(フッサフサの襟付き)などなど、コンテナ一本分を仕分けした事があります。文房具屋がないと思われている模様。 善意と言うか、善威と言うか。』

『代わりに関税払って受け取り、カンボジア国民を代弁して感謝の意を表して、受け取る民間企業です。善意の押し付け。米ネタ同様に、社会の不合理を感じます。宗教とかそういうものにはまっていれば、恍惚感でも味わえるのでしょうかね。』

『日本から古着等を送る賃金(+こっちでの受け取り費)で、数十人分の新古品が入手できる件。 そういう趣旨の説明をすると「日本の人逹の気持ちを届けたい」という返事がよく返ってくる。 誰のためにやってる事なのか、スタート前から迷走している事を突っ込みたくて突っ込めない。』

少しでも人のためになることをしたい、と言う気持ちは本当に尊いものだし、実際に行動に移すことは素晴らしいことです。と思うからこそせっかくの善意の行動を少しでもより良い結果に結び付けたいと思う。せっかくの善意の行動を決して『やっつけ仕事』にして欲しくない。そのためにも少し考えて欲しいのは、果たして人は誰かの使い古しの鉛筆とか奇抜でヘンテコリンな服や、果ては破れかけの服を貰って嬉しいものなのだろうか?ということなのです。

日本の文化の一つとして結婚式の祝儀はピン札を用意し、葬儀には旧札を敢えて持っていくというのがあるけれど、これは事前に日取りがわかっている結婚式にはちゃんと事前に用意した札を使い、日取りが予測できるはずもない人の死には不測の事態であるということを示す旧札を使うという、我々が誇るべき相手に対する気遣いの心が込められている。

このようなちょっとした心遣いをするだけでも、決して『いらん服(よっぽどビリビリじゃないもの)とか使いかけ可の鉛筆、ほんっと何でもOK!』にはならないはずだ。少なくともカンボジアは今、不測の事態(災害とか戦争とか)で苦しんでいるわけでは無いのだから・・・

ちなみに僕のこのツッコミに対し、件の発言をした人は『それだけ、物を寄付してもらえることが現地ではありがたいと言うことです。相手がいらないものを強要するのはただの嫌がらせでしかないですが、現地ではそんな物でも取り合いになるそうです。ご理解いただけますでしょうか。』だった。
『貧乏なんだから何をあげても喜ぶはず』とでも思っているのだろうか? 『もらえるだけでありがたいんだから感謝しなさい』と教えたほうがいいのだろうか?

マジでこの調子だと、僕の友人の持ちネタ『使い古しの歯ブラシをカンボジアの子供たちに』が実現してしまいそうだ(笑) そして、それですらカンボジアの優しい子供達は、使いふるしの歯ブラシを送ってくれた相手の気持ちを慮って、嬉しそうに受け取るだろう事が容易に想像できてしまうんだよね。寄付であれプレゼントであれ、誰かに贈り物をするからには、ぜひ自分がそれを貰って嬉しいかどうかもしっかりと考えてみようではありませんか♪

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孤児院の問題様々

カンボジアの子供達の瞳がキラキラしていて素敵だった、なんていうような話をしている人をよく見かける。 まぁ確かにやつらの瞳はキラキラしているが、たいてい子供なんてよく見てみれば世界中どこの子供だってみんな瞳が輝いているはずだ(笑)

で、この数日そのキラキラ瞳が輝いている子供達の住む孤児院の色々な問題などで、かなりの時間を費やさされていた。

基本的に余り泥臭い話には首を突っ込みたくないので、孤児院に毎日行ってどっぷりと運営にはまり込むような真似は極力避けてはいるのだけれど、なんだかんだとトラブルやイベント事があるたびに必ず呼び出されるハメになる。

今回はクレアから大至急孤児院に来て欲しいと呼び出され、その直後にクレアのことを心配したオーストラリアにいるクレアの親父からもすぐに孤児院に行ってくれないかと電話がかかってきたので、行かないわけにはならなくなった。

なんのことかと駆けつけてみると、要は孤児院を出て行きたいという子供達が謀反を起こしていた。。。

孤児院を出ていってどうするんだという人に少し説明しておくと、うちには全く身寄りが居ない子から片親が近くに住んでいる子まで様々いる。 その中でも身寄りが孤児院の近くに住んでいる子供達は、ちょいちょい自転車に乗って会いに行って、ちょっとした小遣いをもらって帰ってきたりしている。

たまに会いに来ればもちろんカワイイわけで、身寄りの人も優しく接するは小遣いはくれるはで、子供達にとってはいつも『勉強しろ』とか『朝早く起きろ』とかガミガミと怒鳴りつけられる理事長よりも優しくて素晴らしい人ってことになる。

挙句の果てには『理事長は自分のお父さんや親族ではないから自分に厳しく接するんだ』という理論に突き当たったってわけ。 だって本当に優しい人なら親族じゃなくったってクレアみたいに自分に甘く優しくしてくれるはずだから・・・

子供達と友達になってしまっているクレアにも若干の問題点があるんだけれど、これについてはまた後日にでも書こうと思う。

もちろん理事長を始めとする運営者の家族がみんな完璧だとは口が避けても言うつもりはない。 酒を飲んで機嫌が悪い時もあれば、夫婦で殴り合いの喧嘩になったこともある。 勉強に関しては子供達もかなり強制的にさせられる。 子供の世界観ではそんなロクでもない人物はこの世に理事長だた一人しか居ないってことになるんだろう。

言いたいことを全部言わせたほうがいいだろうと思って、子供達50余名を集めてミーティングをしたんだけれど、実際に大きな不満を持っている子は約数名。 『お前たち今の自分がどんなに恵まれているか分かってないんだ』という話をしてみたけれど、勉強したくない怒られたくない出ていきたいという気持ちには変りがないようなので、親族に引取りに来てもらうことにした。

実際問題、親元で生活している普通の家の子供達が12歳やそこらから働き出して、英語なんか全く話せない状況だったりするのに、うちの子供達は英語は当たり前に話せるし、働かずに勉強に遊びに専念できるし、はっきり言って村の子供達よりよっぽどきれいな格好をしている。

翌日なんのこっちゃよくわからずに孤児院に呼び出された親族たちを交え、もう一度子供達を説得することにした。 理由はただひとつ。 今勉強をヤメて親族の元に行くということは、彼らにとって将来の可能性がゼロとは決して言わないが、とてつもなく小さくなってしまうから。

親族も自分のところに来られたって面倒をみることも出来ないし、勉強を続けて欲しいしで必死になって説得していたけれど、それも結局実ることはなく、5名が孤児院での生活に別れを告げる事になった。

そもそも誰も面倒をみることが出来なかったから孤児院で生活することになったのに、もちろん親族の収入が増えたとかで引き取りたいって話なら一番いいんだけれど、それを望んでいないというか望めない生活環境の親族の家に無理やり引きとってもらったところで、何らかの問題が解決されるとは到底思えないんだけれど、まぁこれも彼ら自身の人生、僕にはどうすることも出来ないし仕方がない。

うちの子供達には、前回日本に招待されたことによって、自分たちも努力をすればあんなふうに海外旅行に言ったり、楽しい思いができる可能性があるということを身を持って体験させることが出来たと思ってる。だから今度はその反対を体験させなければ、彼らはいつまでも自分が『恵まれていない可哀相な存在だ』という思いから抜け出せないということが今回のことではっきりと分かった。人間は恵まれた環境の中にいるときにはその事に気がつくことが出来ない。 だからこそ広い視野で客観的に自分の状況を知ることが本当に大切だと思う。

これはもちろん僕自身を含む多くの日本人にも言えることなんだけれど。

次のテーマは自分たちを『可哀相な存在』から『恵まれた存在』へと認識の変化をさせること。 そして恵まれた存在だからこそやるべきことがある、頑張る必要があるということをしっかりと教えたいと思う。 そのためにも寄付に頼った運営をいち早く抜け出させたい。

あぁ、その前に『可哀相なカンボジアの孤児』に会いに来る外国の人々もなんとかしなきゃいけないな・・・

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