カンボジア文化は昭和の香り

今日からは、ちょっと日本ではかなり誤解されているカンボジアの現状や文化を伝えてみたいと思います。もう何度もここで書いてきたけれど、カンボジアが経済的に貧しいということは事実です。ただし、そのせいでカンボジア人が日々涙にくれて生活しているとか、そこらじゅうで強盗や殺人事件が発生しているとか全くそんなことは無い(笑) 実際に日本の各種慈善団体の方々が主張する『可哀相なカンボジア』というイメージも、実際にカンボジアの連中に面と向かって「お前たち可哀相だね」って言うとかなり嫌な顔をされること請け合いだ。

だいたい殆んどの日本人は海外に出かけるときに、飛行機のエコノミークラスやビジネスクラスを利用するが、そこにファーストクラスの奴がやってきて「お前たちこんな狭い席に座って本当に可哀相だな」って言ったとしたら、軽い殺意を覚えるかも知れない・・・ で、哀れんでファーストクラスの食べ物の残りとかを持ってこられたりしたら、間違いなく発狂するはずだ(笑)

もうそろそろいい加減このような時代錯誤のイメージから脱却して、「支援してあげる、助けてあげる」なんていうおこがましくも見下した対応をヤメたほうがいいんじゃないかと思ってるんだけど、やっぱり日本のみなさんにとっては、カンボジアはいつまでも『かわいそうで貧しい国』で無くてはならないのだろうか??

さて、平たく言ってしまうと今から40年〜50年前の日本の文化に非常によく似た文化体系を持っているのがカンボジアだ。 まず何よりも驚くのは、カンボジア人女性は本当にとても良く働く。そのうち女性解放運動家などがデモにでもやってこないかひやひやするくらいだ(笑) 毎朝買い物に行って食料を調達し、薪と鍋でご飯を炊いて、肉は全て自分でさばいて調理する。作り置き無し、電子レンジも炊飯器もガスコンロもそんな便利なもん一切無しだ。365日毎食全て1から手作り。さらに洗濯機が無い家庭が殆どなので洗濯物は全て手洗い手絞り。

これをやりながら育児をして内職をしてというのをこなすのが、極々普通の主婦の日々の暮らしだ。これを子供の頃からずっと母親の手伝いとしてやってきている。出来なければ結婚の対象に入らない。結婚に関しても見合い、もしくは恋愛結婚であっても親の同意無しには成立しない。結婚前に同棲するどころか、一緒に歩いたりというようなデートですらさせてもらえない家が、まだまだ大半だったりもする。だからたまに「駆け落ち」なんていうような、今や日本では死語のような存在になった行為もあったりするらしい。

日本で言うところの結納金を支払って嫁をもらうことになるわけだけれど、初夜に処女ではなかったら倍額にして結納金を返済する、場合によっては結婚解消なんて言うことになる場合もあるっていうんだから中々の筋金入りだ。まぁ、こんな文化もこれからの数十年で、日本と同じように自由恋愛、女性の権利の台頭という形でどんどんと廃れていくことになるんだろうが、果たしてどっちがいいんだろうな~・・・

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間違ったモノサシの使い方

明日は先日日本に帰国したときにイチローさんから紹介していただいた、日本ポリグルの方がうちの孤児院の水質改善のために直接出向いてくれることになった。
(参照)
安全な飲料水・日本ポリグル
http://hugs-int.com/kengo/archives/1246

これを皮切りにうちの子供達、そして近隣の住民の人々、更にはダラの村などの他の地域の人々にも安全な水を提供出来るような仕組みづくりが出来ればいいと思ってる。 先日もイチローさんとせいきゅんが、なんとかこれをビジネスの仕組みに落としこんで永続的なモデル(最近流行りのサスティナブルっちゅーやつね♪)にできないか頭をひねってくれていたようだ。

それぞれが色々な場所で銘々に想いを巡らせながら、それが一つに融合して進歩していくっていうことを目の当たりにし、あまつさえその輪の中に自分が入っている事を体感出来るのが非常に心地良い。 願わくば、もっと自分にこの流れを加速させる力が欲しいもんですね。

さて、先日ちょこっとツイッターにも書いたんだけど、以前からこのブログにも書いているように経済的な貧しさと幸せは全く別次元の話なのに、やはりよく見かけるのは『途上国の人々は貧しい暮らしをしているのに幸せそうに見える』というようなニュアンスの発言だ。これってどうしても金銭と生理的体感が全く違う次元の話だっていうふうに考えられないんだろうか。

例えばもし誰かが『あいつ金持ちなのに寒がっている』とか『この人貧乏なのに眠そうだ』なんて言ってたら、絶対バカだと思われるはずなんだけどね(笑) 幸せっていうのはそれぞれの人の脳みその中の生理現象なんだから、そもそも他人が見て幸不幸を判断してもあまり意味が無いと思うわけですよ。

そんな他人の感覚を自分のモノサシ(しかも経済的な)で計ってしまうこと事態が浅はかだし、そんなことしている以上何をやっても自己満足の域を出ないと思うんだよね。 そんなこと言ってるより「お前のこと稼がせてやるから幸せかどうかは自分で判断しなさい」って言っているほうが、よっぽど筋が通ってるよね。

僕が思うにこういった人たちは『自分が幸せかどうかを他人目線で考えてしまう』から起こる現象なのかも知れない。 年収がいくら以上だとか、大学がどこを出たとか、貯金がいくらあるとか、その他職種・勤務先・身長体重・・・最近だとツイッターのフォロワー数とかミク友の数とか(笑) 常に自分がどの位置にいるか指標が有って確認できないと、自分の幸不幸が判断できない。そういう人は、この幸せとかいうモノは決して他者が判断するようなモノ、若しくは頭で考えるようなモノではなくて、自分自身の感覚、すなわち感じるモノだということを知ることが重要なんだろうと思うんだけど。

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