あなたのボランティア、価値いくら?

なにかと最近話題にのぼることが多くなってきたカンボジアも、今度は人気俳優、向井理主演の『僕たちは世界を変えることができない。』という映画が出来たりして、さらに注目度が上がるんじゃないかと思ってます。

これを気に、また大学生や若い社会人のボランティア志望が増えたりしそうな予感がするので、ちょっと今日はボランティアというものに関して、身も蓋も無い話を書いてみよう(笑)

どうもカンボジアっていうと、かわいそうとか貧困とか、なんていうか涙にくれた人々が内戦と虐殺の悲しみを乗り越えようと、必死にもがきながら生きている、みたいなステレオタイプなイメージがどうしても先行しているようだけれど、残念ながら全くそんなことはありません。 もし、そんな話をしながらカンボジア人を助けよう、なんてことを言ってる奴がいたら、詐欺師だと思ってもらってまず間違い無いと思います(笑)

もちろんここは発展途上国なので様々な問題はあるわけだけれど、その中でもとりわけ大きな問題だと僕が思っているのは、プロフェッショナル(一定以上のスキルや知識を有する専門職)が決定的に足りないということ。 自称プロってのはたくさんいるけれど、その殆んどは「僕には到底できない技術や知識を駆使してくれる人」ではなくて、「僕が面倒な仕事をかわりにやってくれる人」でしかない。 これは教育の現場から始まり、農業・工業・土木建築・医療・法務、とあらゆる分野に及んでいます。

そのような状況の中、カンボジアの人々のスキルや知識の向上を目指すためには、やはりその道のプロの人々に手取り足取り教えていただきながら、共に試行錯誤していかなくてはならない訳ですが、そのためには費用がかかります。 だって、そもそもプロフェッショナルというのは、自分の持てるスキルや知識を売り物にしている人々だから、まぁ当たり前の話ですよね。

ところがそのようなスキルや技術といった、自らの飯の種を無償で提供してくる素晴らしい人々がたまにいます。 そういう人の活動が『ボランティア活動』です。

要するに、金を稼ぐことが出来る能力を無償で提供する、ということです。
今まで僕が接してきた「ボランティがしたい」というたくさんの大学生や若い社会人の人々は、この『金を稼ぐことができる能力』を有していません。 そして、そのような『金を稼ぐことが出来る能力』を持ち合わせていない人々は、カンボジアには掃いて捨てるほど存在しています。 日当2ドルから3ドル(150円から250円)も出せば、簡単に数百人レベルで集めることが出来ます。

ということは、なんのスキルも持ちわせていない人々のボランティアとは、経済的な価値に換算すると1日150円程度の価値しかないということです。 せっかく素晴らしいことをやろうとしているのに、なんて失礼なこと言うんだ!って思いますか?

でもとても厳しい言い方だけれど、これが現実の話です。 さらに言うと、カンボジア人が3ドルで出来る仕事を、ボランティアが無償でしてしまうことによって、彼らの雇用機会をも奪ってしまっているということにもなります。。。

日本語を教える、というボランティアを希望する人もたくさんいますが(っていうか殆んどがそうです)、残念ながら意味があることだとは思えません。 もちろんずっとカンボジアに滞在して日本語を学びたい子供達に教え続ける、というのなら話は別ですが(というかそのレベルだと金が稼げるレベルですよね?)、たった数日から数週間カンボジアに来て日本語を教えて役にたつとは、僕には到底思えないです。

じゃあそういうボランティア希望の人はどうすればいいのか? 良く考えてみてもらえればわかると思いますが、皆さんがボランティアをしているのではなくて、実のところ皆さんがボランティア体験という、人生においてとても貴重な経験をする機会を与えられているということに、ぜひ気がついてください。

その素晴らしく貴重な経験は無償ではない、あえて対価を支払うからこそより貴重な経験となる、のです。

別に生活に困ってしまうほどのお金を使う必要はないけれど、こういった経験以外にも、ちょっとした心遣いには積極的にお金を払ってみてくださいね。 受け取った方はもちろんのこと、渡した方もそんなに悪い気はしないはずです(笑)

かっこ良くボランティア体験をして、粋にお金を使っていく、そんな若者達のカンボジア訪問を楽しみにしています!

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大人の事情なのか?(笑)

2月27日の毎日新聞の記事より
『支援米:カンボジアへ出発式--熊本市 /熊本』
貧困や食糧不足に悩むアジア・アフリカへ米を送る活動を続ける「食とみどり、水を守る県民会議」の今年の支援米出発式が26日、熊本市の辛島公園であった。 95~97年はマリ共和国(アフリカ)、98年以降は毎年カンボジアに米を送っている。今年は活動に賛同した小学生や保護者、生産者らが県内8カ所で米2750キロを収穫し、横浜港から船でカンボジアに送る。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110227-00000187-mailo-l43
もうこのブログをいつも読んでくれている人やツイッターのフォローをしてくれている人は、僕が何を書こうとしているかすぐにピンと来るだろう(笑)

実は今、HUGSのプロジェクトの一つとしてカンボジアの米をいろいろな国に輸出しようと企んでいる。今までのカンボジアの精米機では高品質の白米が出来なくて輸出に向かなかったのだけれど、今回HUGSは日本の精米機を導入しることにより輸出出来る品質の白米を作ろうとしています。

そもそもカンボジアは灌漑工事が出来ていないせいで、年1毛作しか出来ない土地がたくさんあるにも関わらず、毎年米が余っているような状態だ。農家の人々はタイやベトナムから米を買い付けに来る仲買人によって安い金額で米を買い叩かれ、それぞれの国に籾のまま運ばれ後精米されて、メイドイン・タイやメイドイン・ベトナムの米となって世界の市場に流通している始末。

実際問題、カンボジア人は米を本当にたくさん食べます。貧しい家なんかだと白米山盛りとよくわからない葉っぱが浮かんだ薄い汁だけ、とかそんな感じの食事でカロリーを摂取しています。だからカンボジア人が糖尿になる率は思いの外高かったりする。それだけ米を消費していても国内流通だけでは余るくらい生産されていて、余ってしまって買い手がつかないと困る農家の人々が、国境を越えてやってくる仲買人にいいようにあしらわれているのが現状なのです。だから今、カンボジアは米の輸出国になるというのが、一つの重要な国家戦略としての命題となっています。

そんなところに米を送りつけてくるっていうのは、これもやはり『善意の行動だからありがたく頂戴すべきだ』というロジックで本当にいいのだろうか?

熊本に集められた2750キロの米は横浜港まで運ばれ、そこから船積みされてカンボジアに届けられる。熊本から横浜港までの輸送費、さらに船でカンボジアまで運ぶ輸送費諸々でいったいいくら掛かっているんだろう?ちなみにカンボジアで高級とされているジャスミンライス(プカー・マリ)やロムドゥール米という種類の米をそこら辺の市場で買うと、キロあたり2500リエル(62.5セント)、日本円にすると約53円だ。2750キロの米を購入するとなると約145,750円必要だということになりますよね。

どうせやるなら、例えば日本の米の価格は知らないけれど、この2750キロの米を日本で売って、そのお金をカンボジアに送ってこっちで米を買ったほうが遥かにたくさん購入できるし、少しでも近隣の農家の助けにもなるんじゃないだろうか、と思ってしまうわけですよ。もちろん支援をするなとは言わないし、絶対に正解なんて方法は存在しないんだけれど、少なくとも相手の状況も全く把握していないにもかかわらず、支援するっていうことの意味がそもそも理解出来ない。この件は日本の子供達も巻き込んで美しいストーリになっているようだけれど、この企画を何年にも渡って続けている大人たちは、「カンボジアという貧困国を支援している」という形式的実績が欲しいだけではないのか、という大人の事情が見え隠れしているように思えて仕方ないのだけれど、これは僕の只の思い過ごしなんだろうか(笑)

「食とみどり、水を守る県民会議」の関係者の方、HUGSから支援のお米を購入するなら原価でお譲りさせていただきますよ。 いつでもご連絡ください♪

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本当は変わってほしくない?

さてと、昨日の続き。。。
(参照記事)
・明けましておめでとう(2回目)
http://hugs-int.com/kengo/archives/1274

最初に断りを入れておくと、今回クレアの家族がまるで悪者のようになってしまっているけれど、実際のところ彼女たち一家は本当にいい人達ばかりだ。たまたま今回はクレア一家と孤児院の問題がすごく分かりやすい例なので取り上げさせてもらったけれど・・・

ちなみに僕は英語を書くのがひじょーに苦手だ、というか面倒くさいから嫌いです(笑) なんでかって言うと、ものすごく英語のスペルを間違いまくるから。 最近のコンピューターは優しいから、スペルを間違えるとその単語の下に『間違えてますよ、お前』という印に線を引いてくれる。 僕の場合、書いた尻から軒並み単語の下が線だらけになるから、なんて言うか書いてる最中に自分が嫌になってくる(笑)

そんな僕に熱風邪で最高潮に体調が悪いときに英文メールを書かせたんだから、フィフォンのヤロー高くつくからな、とか思ったりしながら頑張って書いたメールは、上手く相手の心に通じてくれたようだった。 すぐさまクレアと親父さんと双方から僕に返信されたメールには、口々に勘違いの謝罪と支援の打ち切り等を考えたりしていないこと、そしてネーヤンをいち早く孤児院に戻してくれるようにとの内容が書かれていた。

最終的に理事長の判断で、クレアがいつも使っている運転手に対してネーヤンとの宿泊許可を発行してクレアの自宅に迎えに行かせ、病院で実際のところ心臓の具合がどうなのか再検査に行かせる。 その後も病院に通院しなければいけないようなら、通院するのに距離的に身体に負担が掛かる孤児院ではなくその運転手の家に泊まることも視野に入れる決定をくだした。 これでようやく『病気で未成年の孤児』が街中の親権者以外の家で一人暮らしをしている、というとっても変な状況を終了させることが出来た。

これにともなってスイスのサラとポールにも内容を説明するためにメールを送ったのだけれど、彼らもまた孤児院の運営者に対して色々な不満を持つ人々でもある。 昔はもっとみんなピュアだったのに今は理事長一家もあまり孤児院の運営に力を集中していないし、子供達のこともほったらかしだというのが彼らの意見だ。 そのことについて今晩Skypeで話をすることにしているが、その前に僕の思うところを書いておきたい。

彼らが初めて孤児院を訪れた3年前と今を比べるのがそもそもの間違いなんだけれど、どうしても彼らは『変わってもらいたいけれど、本当は変わってほしくない』という思いを、カンボジアに対していだいてしまっているみたいだ。

で、まず第一に3年前と今と決定的に違うのは、ティーンエージャーが当時はいなかったって事だ。 カンボジアの田舎に住む、外国人とロクに触れ合ったりもしたことなかった子供達が、英語を学び年間1000人以上の外国人と接しながら、今や素朴なガキだった彼らも立派なティーンエージャーになってきた。  英語を教えにきてくれた外国人ボランティアの若者たちは、多感なティーンエージャーになろうとしている子供達にとって、あまりにも刺激的な新たなカルチャーを持ち込んできたのも事実だ。

たった一人のティーンエージャーですらも手に負えなくなってしまう家庭が世の中にはゴマンとあるのに、ここには10人単位のティーンエージャーが一気に誕生している。 しかも文化、文明、語学の壁を一気に飛び越えた存在の超新人類だ。

もちろん変わっていくのは子供達だけではない。 それを取り巻く大人たちも又、今まで見たことも無かった世界の話に接し、自分たちも夢を見たり背伸びしたりするようになるのは当然の成り行きだ。 ところがそうやって、彼らが変化を求めだすと欧米の支援者は意義を唱え出す。

『以前の孤児院はもっとピュアだった』と・・・

その他にも孤児院を訪れるボランティアスタッフから出される不満も枚挙に暇がない。 孤児院の運営体制が整っていない、教育カリキュラムが整備されていない、資金使途が不透明だ、子供達にもっと気を配るべきだ、エトセトラetc…

っていうか教育カリキュラムを自分たちで作ってしっかりと運営していけるのなら、ボランティアなんかいらないじゃないのか? 孤児院の運営体制を彼らが主張するように整えようと思ったら、もっと専属スタッフの人数が必要になるけど、その費用はいったい誰が負担するの? 今ですら赤字運営なのに資金使途が不明も糞もあったもんじゃないよね、そもそも足りてないんだから(笑) ってな感じです。

しかも欧米諸国はどうだか知らないけれど、カンボジアはまだまだお父さんお母さんが絶対権力者の国です。 子供がどんなに理屈をこねようが、両親がダメって言ったらダメ。だから孤児院の絶対権力者は理事長で、僕たち外野がそこに逆らったり(しかも子供達の味方をしたりして)する度に、このカンボジアの不文律を犯してしまっていることに気がつかなければならない。反対に僕たち外部の人間が、理事長を素晴らしいお父さんに仕立て上げることが出来れば、子供達はお父さんの言う事をよく聞くようになるだろうし、そうやって理事長をいつも立てていれば、こちらが間違いを指摘したときに理事長も素直に話を聞いてくれるってもんだろう。そういうのって欧米人上手そうなのになって思うんだけれど、やっぱそういう風にしないのは『我々が助けに来てやっている』という考え方が根底から抜けないからなんだろうなぁ・・・

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