ただでさえ貧乏(というか貧困)のイメージが強いカンボジアの、そのまた地方の農村に住む人々は、なんていうか絶対貧困層の代表例の様に世間では思われている。まぁ、それは確かに間違いではなくて、彼らが多額のキャッシュを持っていたりすることはあまり無い。とは言え、日本の大多数の人々が考えているような「飢餓」はカンボジアには存在しない。で、その貧困の原因というのが地方農村には仕事が無いとか、働く機会が無いからとか、要するに「働くチャンスさえ有れば彼らは豊かになれる」なんていうように世間一般には考えられていると思う。
ところが最近、以前よりももっと深く地方農村に出入りして彼らと接してみてわかってきたのは、働き口なんてまだまだ有るし、その気になればもう少しくらい稼ぐチャンスなんていくらでも転がっている、ということだった。忙しすぎて本当に過労死してしまう人が居るくらいの日本の労働環境とは違い、彼らも時間だけは唸るくらい余っているんだから、もうちょっと頑張って稼げばいいのになんて思っていたが、彼らがその気にならない理由が何となくわかってきた。
その理由というのは『金の使い途が無いから』、という、一見すると意味がわからないものだった。
「いやいや、金の使い途なんていくらでも有るやん」とみんなは思うだろう。僕ももちろんそう思っていた。ところが、金というのは有る一定量以上あるから色んなことに使えるのであって、1ヶ月に100ドル(約1万円)多く稼いだからと言って、生活が激変するようなことはない。事実、彼らが今より多少多く働いても、それは月に100〜200ドル多く稼げるだけの話だ。
彼らだって欲しいものはたくさんある。新車のバイク、自動車、大画面液晶テレビ、エアコンが付いた綺麗な家、冷蔵庫、金ピカの時計・・・。でも、そのどれもが100ドルや200ドルでは手が届かない。日本みたいにクレジットが発達していないから、ローンでこれらを手に入れることはまず不可能だ。しかもエアコンだの冷蔵庫だのは、そもそも電気が通ってないから購入しても使えない(笑)
日本であれば、1万円も余分にあればそれを使って楽しめる選択肢がたくさんある。ちょっと贅沢なディナー、おしゃれな服、映画を見に行く、小旅行をしてみるなどなど。例を挙げるだけでもキリがないくらいの選択肢があるけれど、カンボジアの農村での100ドルは『酒を飲む』『近所の連中と酒を飲みながら博打する』以外に使い途が無い。彼らだって、そんな無駄なことに金を使うために必死になって働きたくない。酒が飲みたければ、その日ちょっと頑張って余分に仕事をすれば酒代くらいは稼ぐことが出来る。
こんな状況の中、彼らでも手が届く贅沢品が登場した。スマートフォンだ。高嶺の花はiPhone。これを持っているのは村でも有数の金持ちたちだが、自分たちでも100ドル前後で中古のスマホを買うことが出来る。使い方なんて全くわからないが、みんなが持ち始めたものを自分が持っていないということが、何よりも恥なカンボジア人にとっては、スマホの購入は必須になってきている。事実、未舗装道路の奥深くにある電気も通っていない村の携帯電話屋でもスマホを販売している(笑)
そんなわけで、まだまだ世界のスマホユーザー数は伸び続けるんだろうな〜なんてことを、カンボジアの片田舎の状況を見ながら感じ入っております。