まぁ、そんなこんなで色々とあったわけだけれど
今日からいよいよ本格的な授業が開始されることになった。
といっても僕がやる授業なんだから本格的といっていいのかどうかはわからない(笑)
とりあえずフィフォンが懇切丁寧に僕に内容を説明してくれた。
「1時半から1時間は小さい子供のクラス、15分休憩してもう一時間小さい子供のクラス。
さらに15分休憩して大きい子供のクラス。では頑張ってください」
以上だ。
小さい子供が何人いるのか、年齢層はどれくらいなのか、名前もわからなければ
どれくらい話せるのかもわからない。
そもそも日本語というものを理解しているのかもわからない。
さっぱりわからない事だらけだ・・・
しょうがない、とりあえず自己紹介からでも始めてみるか。
ぜんぜん関係ない話だけれど、この”しょうがない”に該当する英語はないらしい。
僕の友達のアメリカ人は”ノー ジンジャー(生姜)”で”生姜無い”とかいう、
超日本的な親父ギャグを新しい英語として使っている。
中々日本ナイズドされているよ、T君・・・
話は戻って、日本語を教えるなら日本語以外を使ってはいけないらしい
が、しかし、そんなのはっきり言って僕には無理です。
それじゃぁ一ミリたりとも話が前に進まない。
それ考えるとイギリス人ってすごいよなぁ、どこでだって完璧に英語一本やりやもんなぁ
とか感心しつつ、無理やり自分の自己紹介を日本語でしてみた。
それを黒板に書いて全員に言わせる
「私の名前はけんごです!」
いや、違うなぁ。。。 これじゃ全員が僕になってしまう(笑)
しょうがないからひとりづつ自己紹介させよう♪
名前と年齢と人種くらいにするか、と思って念のためにみんなの年齢を聞いてみた。
まぁ6歳から8歳くらいだろう、と考えていたらまったく違う。
一番小さいので9歳だ...上は15歳までいる。うそだろ???
以前ラオスの山岳民族の、どう考えても50歳位だろうと思っていたおばちゃんが
28歳と聞いて倒れそうになったことがあるけれど、今回はその逆だ。
でもまぁしょうが無い、見えなくったって歳はとっているんだから。
しかし、6歳もの年齢幅があるものを一緒に、しかも一気に60人くらいを学ばせるって
どう考えても無理があるでしょ、フィフォン君。
まぁいいや、あーだこーだ言っても何も始まらない。
ここでもまた”しょうがない”だ、前のやつから一人づつ自己紹介だ!
「わたしのなまえは*+;@%$#です」
・・・・・・・・・・??
カンボジア人の名前は聞き取れない、と言うか聞き取るたびに違うように聞こえる。
のどや鼻の奥で発音する音があるのか、本当に良くわからない。
こうなったら無理やりカタカナにして聞き取れたことにするしかないな
そう決めた僕はひとりづつノートを借りて、名前を聞いてカタカナで書いていくことにした。
なんて事をやっているうちに一時間が過ぎた。
こりゃぁ思ったより骨が折れるなぁ、どうも。
ちょっとブログ書いているのが面倒になってきたから
ここから先はまた次回だ
ついでに言うと写真もサボる。
「カンボジア」カテゴリーアーカイブ
子供たちinカンボジア
嵐のようにやってきた長江さんファミリーは、まさに嵐のような雨の中シンガポールに帰っていった。
今は雨も上がり曇っているが、太陽が出ていないだけでこんなに涼しいとは思わなかった。
僕の泊まっているゲストハウスから孤児院まで片道15キロくらいあるんだけど、
半分以上がジャングルの中にある未舗装のでこぼこ道だから、行き来するのが非常に大変だ。
日本でダイエット用に乗馬マシンとかを売っているけど、多分強制的にそれに乗っている感じ(笑)
もしかしたら日本に帰るころには腹筋が浮き出ているかもしれない...
そんなことはさておき、長江3シスターズの今回の訪問目的は
孤児院の子供たちと触れ合って、しっかりとコミュニケーションをとることだ。
設定としてはもっとも過酷な条件だと思う、なぜならまず言葉がまったく通じない、
それに文化もぜんぜん違うし、育った環境なんか180度違う。
片や暖かい両親の元、決して貧しくない暮らしをしてきた子供と
両親は亡くなり、貧しいと言うよりは文明すらないようなジャングルの奥地で生活している
孤児の子供たち。
正真正銘の異文化コミュニケーションだ。
実は僕がこのような支援活動を行っているのも、この異文化コミュニケーション能力
と言うか、根本的なコミュニケーション能力すら今の日本人には失われているんじゃないか
という危機感があるからだ。
だから今回の3シスターズの孤児院訪問にとても興味を持っていた。
いやはや、やっぱり子供は素晴らしい。
当初は中々なじめなさそうにしていた子供たちも、
ちょっとしたキーパーソンが現れるとたちまち仲良くなり始めた。
実はあまり中に立ち寄ると大人が介在してしまうので、
実際にどうやって言葉が通じない壁を越えていったのかはよくわからない。
しかし最終的には、子供たちだけでカンボジア最後の夜をこの孤児院で過ごすことになり
今朝帰る直前に僕と長江さんで迎えにいった。
きっと今の日本に根本的に欠けているのは、こういう環境を与えることなんだと思う。
ブランド物の服を着せても、最新式のゲーム機を買い与えても
塾でどれだけ勉強しても、全て親が与えたものだ。
そして学校での勉強には必ず答えが存在しているし、聞けば誰かが教えてくれる。
アジア諸国を支援すると言うと、どうして日本の子供たちのことを考えないのか
などと言われたことが何度もあった。
でも、はっきり言って僕が本当に何とかしたいと思っているのは
その日本の子供たちと日本の未来だ。
でも、日本の子供たちにこれ以上何を与えるというのだろう?
自分から掴み取る機会を与えるほかに何もすることができないんじゃないだろうか。
正直に言ってしまえば、例えばこのカンボジアは僕が何も支援しなくても今後必ず伸びてくるだろう。
国を変えようとしているたくさんの大人たちと、学びに貪欲な子供たち。
そして何よりカンボジア人はコミュニケーションの達人だ。
そうやって、アジア周辺諸国がどんどんと力をつけてきたとき、
今の日本の子供たちが大人になったとき、彼らと果たしてうまくやっていけるんだろうか?
今回の長江さんの子供たちの冒険は、いつの日か必ず役に立つ日が来るだろう。
それは明確な形として見えないかも知れないけれど、心の奥底に刻まれた記憶として
さまざまな場面で生かされることになるはずだ。
一回りたくましくなった3シスターズ、お疲れ様。
次回の企画、楽しみにしているよ!
ポールとサラ、そしてポンセナ
バイクを買ったのをいいことに、フィフォンから
「ケンゴもこれで一人で学校まで来れるね」と言われた。
そんな無茶な...あんな標識も何も無い密林の中の道を
どうやって月曜日から一人で行くねん!!と突っ込みを入れそうになっていたところ
スイス人ボランティアのポールとサラが声をかけてくれた。
学校はお盆で休みなんだけれど、孤児達は身よりもないからどこにも行けない
だから様子を見に行こうと思うんだけれど、一緒に行かないかというお誘いだ。
もちろん一緒に行くことにして、ついでに道を覚えることにした。
去年の4月にスイスを出発してから、ずっと二人で旅を続けながら
現地の人と触れ合うことに重きをおいている、とってもナイスな夫婦だ。
「学校を出てから65歳まで、家を買ってローンと生活のために
毎日わき目も振らずに働いて、いったい自分の時間はどこにあったんだろう
というような人生を送らないために、旅に出た」
とのことだが、先進諸国の人々の問題点はどこも同じようなものらしい。
しかも、こういうことを言うのは人生のドロップアウト組かと思いきや
スイスの保険会社から出資をさせて、学校にトイレを作ったり自転車を寄付したり
はたまた現在は念願の台所を建築中と、経済的にもしっかりとパワフルだ。
ちなみに今現在は、屋外の木の下で調理をしている。
雨季にはとんでも無い量の雨が降るこの国で、
いったいどうやって毎日の食事を用意していたんだろう?
一緒に食事しよう、とか言って誘ってくれるが、
残念ながら胃腸がデリケートに出来ている僕は
やんわりと、でも確実にお断りすることにしている。
ごめんね・・・
お盆休みの学校では孤児たちと一緒に、われらがフィフォンがカラオケを熱唱していた。
近所の人々も小さい子供たちも一緒になって踊っている。
日本も昔はこんな感じだったんだろうなぁとか思ったりした。
なんだか毎日遊んでばかりいるように思われそうなので
ちゃんと勉強もしてるんだっていうところも写真に撮っておいた。
こっちの子供たちにとっては外国語の学習も遊びの一環のようだ。
ちなみに左端のおじさんが、ここの理事長のポンセナさん。
理事長って言っても毎日この場所で子供たちと寝食をともにしている
まさに文字通り子供たちに全てをささげている偉大な人物だ。
笑顔でも目が笑っていないやつは今まで散々見てきたけれど
怒っていても目が笑っているような人には中々出会えない。
左手は怪我で小指しか残っていないし、英語なんかまったく話せない。
でも、とてつもない笑顔で49人もの孤児の父親を勤めている。
あぁ忘れてた...フィフォンの本当のお父さんでもある(笑)
ってな感じで、今日はクメール語、日本語、英語、スイス系ドイツ語と中国語
の5ヶ国語で遊んでみました。