最近めっきりブログの更新頻度が減っている主な原因であるツイッター(笑) そこに昨日このような書き込みが見られました。
『友達が慈善事業でカンボジアに行っとるんやけど、いらん服(よっぽどビリビリじゃないもの)とか使いかけ可の鉛筆、ペン、紙とかの文房具で譲ってもらえるものがあったら連絡下さい~! あたしも奇抜な服とか、体操服とか作業着まで寄付したけん、ほんっと何でもOK!』
この発言に関しての僕の率直なツッコミを書かせてもらった。 『もはや善意なのかゴミ箱扱いなのかわからんな』と・・・
この僕の意見に対し実際にカンボジアに住んでいる人々の見解は下記のような感じでした。
『自分も以前、チビた鉛筆、タイムカード、三分の二を千切り取ったメモ帳、塗り終わった塗り絵の本、モコモコダウンジャケット(フッサフサの襟付き)などなど、コンテナ一本分を仕分けした事があります。文房具屋がないと思われている模様。 善意と言うか、善威と言うか。』
『代わりに関税払って受け取り、カンボジア国民を代弁して感謝の意を表して、受け取る民間企業です。善意の押し付け。米ネタ同様に、社会の不合理を感じます。宗教とかそういうものにはまっていれば、恍惚感でも味わえるのでしょうかね。』
『日本から古着等を送る賃金(+こっちでの受け取り費)で、数十人分の新古品が入手できる件。 そういう趣旨の説明をすると「日本の人逹の気持ちを届けたい」という返事がよく返ってくる。 誰のためにやってる事なのか、スタート前から迷走している事を突っ込みたくて突っ込めない。』
少しでも人のためになることをしたい、と言う気持ちは本当に尊いものだし、実際に行動に移すことは素晴らしいことです。と思うからこそせっかくの善意の行動を少しでもより良い結果に結び付けたいと思う。せっかくの善意の行動を決して『やっつけ仕事』にして欲しくない。そのためにも少し考えて欲しいのは、果たして人は誰かの使い古しの鉛筆とか奇抜でヘンテコリンな服や、果ては破れかけの服を貰って嬉しいものなのだろうか?ということなのです。
日本の文化の一つとして結婚式の祝儀はピン札を用意し、葬儀には旧札を敢えて持っていくというのがあるけれど、これは事前に日取りがわかっている結婚式にはちゃんと事前に用意した札を使い、日取りが予測できるはずもない人の死には不測の事態であるということを示す旧札を使うという、我々が誇るべき相手に対する気遣いの心が込められている。
このようなちょっとした心遣いをするだけでも、決して『いらん服(よっぽどビリビリじゃないもの)とか使いかけ可の鉛筆、ほんっと何でもOK!』にはならないはずだ。少なくともカンボジアは今、不測の事態(災害とか戦争とか)で苦しんでいるわけでは無いのだから・・・
ちなみに僕のこのツッコミに対し、件の発言をした人は『それだけ、物を寄付してもらえることが現地ではありがたいと言うことです。相手がいらないものを強要するのはただの嫌がらせでしかないですが、現地ではそんな物でも取り合いになるそうです。ご理解いただけますでしょうか。』だった。
『貧乏なんだから何をあげても喜ぶはず』とでも思っているのだろうか? 『もらえるだけでありがたいんだから感謝しなさい』と教えたほうがいいのだろうか?
マジでこの調子だと、僕の友人の持ちネタ『使い古しの歯ブラシをカンボジアの子供たちに』が実現してしまいそうだ(笑) そして、それですらカンボジアの優しい子供達は、使いふるしの歯ブラシを送ってくれた相手の気持ちを慮って、嬉しそうに受け取るだろう事が容易に想像できてしまうんだよね。寄付であれプレゼントであれ、誰かに贈り物をするからには、ぜひ自分がそれを貰って嬉しいかどうかもしっかりと考えてみようではありませんか♪