大人の事情なのか?(笑)

2月27日の毎日新聞の記事より
『支援米:カンボジアへ出発式--熊本市 /熊本』
貧困や食糧不足に悩むアジア・アフリカへ米を送る活動を続ける「食とみどり、水を守る県民会議」の今年の支援米出発式が26日、熊本市の辛島公園であった。 95~97年はマリ共和国(アフリカ)、98年以降は毎年カンボジアに米を送っている。今年は活動に賛同した小学生や保護者、生産者らが県内8カ所で米2750キロを収穫し、横浜港から船でカンボジアに送る。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110227-00000187-mailo-l43
もうこのブログをいつも読んでくれている人やツイッターのフォローをしてくれている人は、僕が何を書こうとしているかすぐにピンと来るだろう(笑)

実は今、HUGSのプロジェクトの一つとしてカンボジアの米をいろいろな国に輸出しようと企んでいる。今までのカンボジアの精米機では高品質の白米が出来なくて輸出に向かなかったのだけれど、今回HUGSは日本の精米機を導入しることにより輸出出来る品質の白米を作ろうとしています。

そもそもカンボジアは灌漑工事が出来ていないせいで、年1毛作しか出来ない土地がたくさんあるにも関わらず、毎年米が余っているような状態だ。農家の人々はタイやベトナムから米を買い付けに来る仲買人によって安い金額で米を買い叩かれ、それぞれの国に籾のまま運ばれ後精米されて、メイドイン・タイやメイドイン・ベトナムの米となって世界の市場に流通している始末。

実際問題、カンボジア人は米を本当にたくさん食べます。貧しい家なんかだと白米山盛りとよくわからない葉っぱが浮かんだ薄い汁だけ、とかそんな感じの食事でカロリーを摂取しています。だからカンボジア人が糖尿になる率は思いの外高かったりする。それだけ米を消費していても国内流通だけでは余るくらい生産されていて、余ってしまって買い手がつかないと困る農家の人々が、国境を越えてやってくる仲買人にいいようにあしらわれているのが現状なのです。だから今、カンボジアは米の輸出国になるというのが、一つの重要な国家戦略としての命題となっています。

そんなところに米を送りつけてくるっていうのは、これもやはり『善意の行動だからありがたく頂戴すべきだ』というロジックで本当にいいのだろうか?

熊本に集められた2750キロの米は横浜港まで運ばれ、そこから船積みされてカンボジアに届けられる。熊本から横浜港までの輸送費、さらに船でカンボジアまで運ぶ輸送費諸々でいったいいくら掛かっているんだろう?ちなみにカンボジアで高級とされているジャスミンライス(プカー・マリ)やロムドゥール米という種類の米をそこら辺の市場で買うと、キロあたり2500リエル(62.5セント)、日本円にすると約53円だ。2750キロの米を購入するとなると約145,750円必要だということになりますよね。

どうせやるなら、例えば日本の米の価格は知らないけれど、この2750キロの米を日本で売って、そのお金をカンボジアに送ってこっちで米を買ったほうが遥かにたくさん購入できるし、少しでも近隣の農家の助けにもなるんじゃないだろうか、と思ってしまうわけですよ。もちろん支援をするなとは言わないし、絶対に正解なんて方法は存在しないんだけれど、少なくとも相手の状況も全く把握していないにもかかわらず、支援するっていうことの意味がそもそも理解出来ない。この件は日本の子供達も巻き込んで美しいストーリになっているようだけれど、この企画を何年にも渡って続けている大人たちは、「カンボジアという貧困国を支援している」という形式的実績が欲しいだけではないのか、という大人の事情が見え隠れしているように思えて仕方ないのだけれど、これは僕の只の思い過ごしなんだろうか(笑)

「食とみどり、水を守る県民会議」の関係者の方、HUGSから支援のお米を購入するなら原価でお譲りさせていただきますよ。 いつでもご連絡ください♪

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ちょっとブツクサ言ってみる

去年の夏ころに日本のNGO団体の人から『シエムリアプに旅行する人に文房具を持たせて孤児院に寄付したいので、場所などを教えて欲しい』という要請があった。このNGO団体は旅行者に文房具を託すことによって、送料を掛けずに現地まで届けるということを狙いに活動しているそうだ。

ただうちの孤児院の場合、おかげさまで文房具や洋服といったようなモノはあちこちから寄付を貰っていて、正直に言って余り気味なので他の孤児院かフリスクールを紹介しますと伝えさせてもらっていた。結局その時はどうやらスケジュールが合わなかったようで、また次の機会にってなことになっていたんだけれど、この度またこちらに旅行者の方が来るということで連絡をもらった。

今回は国際協力学生団体がこちらに来るので、ぜひとも文房具を届けさせて欲しいということだ。

早速フィフォンやピルンを始めとした何人かのフリースクールを運営している連中に聞いてみたんだけれど、みんな文房具は充分に間に合っているってことだった。どちらかというと過剰に支給されることがあって子供達が大切に使わないこともあるから、本当は自分たちで購入させたほうがいいってな意見もあった。

で、こんなやりとりをしていると、ここでふとした疑問が湧いてきた。どうして文房具限定なんだろう?

例えば鉛筆を貰っても、腹が減っても食えないし、寒さを凌ぐことも出来ない。 さらには風邪をひいたって薬の代わりにもなりやしない。 鉛筆は鉛筆以上の働きをしてくれない。 ところがもし、この文房具を購入するのと同じだけの現金を渡されたとすれば、その時一番必要とされるもの(それは鉛筆かも知れないし、薬かも知れないし、米かも知れない)に自分たちの裁量で交換することができる。

この自分たちの裁量で最適なモノを購入するという選択権を、彼らに渡してやることは何か問題があるのだろうか?

それにこの文房具にしたって、日本で購入して旅行者が持ってくるのは確かに送料が掛からないという利点はあるけれど、それならいっそ現地で購入したほうが遥かに価格が安いからたくさんの量を買い揃えることも出来るし、現地で商売している人の懐も潤うことになる。 世界中どこの貧困国だって一番効果を発揮するのは『外貨を稼ぐこと』なんだから。

どうして日本で購入して現地に持ち込まなければならないのだろう?

せっかくの機会なのでこのNGO団体の担当の人にも率直な僕の疑問や意見として、上に書いたような内容を伝えさせてもらうと共に、今回の文房具の寄付の申し出は辞退させてもらうことにした。 少なくともうちよりも、もっと文房具を必要としているところに届けて欲しいと思うから。

さらに、このNGO団体とは関係ないことなんだけれど、最近旅行者などがちょっとした支援物資(お菓子とか服とか文房具とか)を孤児院などに持参して、それを手渡しているところを記念撮影。 更には子供達全員を集めて記念撮影を行い、その後Facebookや自分たちのウェブサイトに写真を貼り付けるという行為に対して、子供達のプライバシーや肖像権を完全に無視した行為をやめさせるべきだとの意見も言われ始めている。

まぁ僕は別に写真を撮るなとは思わないけれど、100ドル程度の何かを購入して持ってきて、それを手渡しているところとかをバチバチと写真に撮るという行為と、動物園で餌を購入して餌付けしているところをバチバチと写真を撮る行為との境目がよくわからない。 どっちも根本的には同じだよね?(笑)

ってな訳で、子供達と一緒に写真を撮ろうって人(特に集合写真を撮りたいなんて人ね)は、『彼らがどんなに貧しい子供達であって、あなたがどんなに素晴らしい支援者であったとしても、彼らには日本やアメリカの子供達と同じように肖像権やプライバシーは存在する』って事だけは、ちょっと頭の片隅においておいてほしいなと思います。

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本当は変わってほしくない?

さてと、昨日の続き。。。
(参照記事)
・明けましておめでとう(2回目)
http://hugs-int.com/kengo/archives/1274

最初に断りを入れておくと、今回クレアの家族がまるで悪者のようになってしまっているけれど、実際のところ彼女たち一家は本当にいい人達ばかりだ。たまたま今回はクレア一家と孤児院の問題がすごく分かりやすい例なので取り上げさせてもらったけれど・・・

ちなみに僕は英語を書くのがひじょーに苦手だ、というか面倒くさいから嫌いです(笑) なんでかって言うと、ものすごく英語のスペルを間違いまくるから。 最近のコンピューターは優しいから、スペルを間違えるとその単語の下に『間違えてますよ、お前』という印に線を引いてくれる。 僕の場合、書いた尻から軒並み単語の下が線だらけになるから、なんて言うか書いてる最中に自分が嫌になってくる(笑)

そんな僕に熱風邪で最高潮に体調が悪いときに英文メールを書かせたんだから、フィフォンのヤロー高くつくからな、とか思ったりしながら頑張って書いたメールは、上手く相手の心に通じてくれたようだった。 すぐさまクレアと親父さんと双方から僕に返信されたメールには、口々に勘違いの謝罪と支援の打ち切り等を考えたりしていないこと、そしてネーヤンをいち早く孤児院に戻してくれるようにとの内容が書かれていた。

最終的に理事長の判断で、クレアがいつも使っている運転手に対してネーヤンとの宿泊許可を発行してクレアの自宅に迎えに行かせ、病院で実際のところ心臓の具合がどうなのか再検査に行かせる。 その後も病院に通院しなければいけないようなら、通院するのに距離的に身体に負担が掛かる孤児院ではなくその運転手の家に泊まることも視野に入れる決定をくだした。 これでようやく『病気で未成年の孤児』が街中の親権者以外の家で一人暮らしをしている、というとっても変な状況を終了させることが出来た。

これにともなってスイスのサラとポールにも内容を説明するためにメールを送ったのだけれど、彼らもまた孤児院の運営者に対して色々な不満を持つ人々でもある。 昔はもっとみんなピュアだったのに今は理事長一家もあまり孤児院の運営に力を集中していないし、子供達のこともほったらかしだというのが彼らの意見だ。 そのことについて今晩Skypeで話をすることにしているが、その前に僕の思うところを書いておきたい。

彼らが初めて孤児院を訪れた3年前と今を比べるのがそもそもの間違いなんだけれど、どうしても彼らは『変わってもらいたいけれど、本当は変わってほしくない』という思いを、カンボジアに対していだいてしまっているみたいだ。

で、まず第一に3年前と今と決定的に違うのは、ティーンエージャーが当時はいなかったって事だ。 カンボジアの田舎に住む、外国人とロクに触れ合ったりもしたことなかった子供達が、英語を学び年間1000人以上の外国人と接しながら、今や素朴なガキだった彼らも立派なティーンエージャーになってきた。  英語を教えにきてくれた外国人ボランティアの若者たちは、多感なティーンエージャーになろうとしている子供達にとって、あまりにも刺激的な新たなカルチャーを持ち込んできたのも事実だ。

たった一人のティーンエージャーですらも手に負えなくなってしまう家庭が世の中にはゴマンとあるのに、ここには10人単位のティーンエージャーが一気に誕生している。 しかも文化、文明、語学の壁を一気に飛び越えた存在の超新人類だ。

もちろん変わっていくのは子供達だけではない。 それを取り巻く大人たちも又、今まで見たことも無かった世界の話に接し、自分たちも夢を見たり背伸びしたりするようになるのは当然の成り行きだ。 ところがそうやって、彼らが変化を求めだすと欧米の支援者は意義を唱え出す。

『以前の孤児院はもっとピュアだった』と・・・

その他にも孤児院を訪れるボランティアスタッフから出される不満も枚挙に暇がない。 孤児院の運営体制が整っていない、教育カリキュラムが整備されていない、資金使途が不透明だ、子供達にもっと気を配るべきだ、エトセトラetc…

っていうか教育カリキュラムを自分たちで作ってしっかりと運営していけるのなら、ボランティアなんかいらないじゃないのか? 孤児院の運営体制を彼らが主張するように整えようと思ったら、もっと専属スタッフの人数が必要になるけど、その費用はいったい誰が負担するの? 今ですら赤字運営なのに資金使途が不明も糞もあったもんじゃないよね、そもそも足りてないんだから(笑) ってな感じです。

しかも欧米諸国はどうだか知らないけれど、カンボジアはまだまだお父さんお母さんが絶対権力者の国です。 子供がどんなに理屈をこねようが、両親がダメって言ったらダメ。だから孤児院の絶対権力者は理事長で、僕たち外野がそこに逆らったり(しかも子供達の味方をしたりして)する度に、このカンボジアの不文律を犯してしまっていることに気がつかなければならない。反対に僕たち外部の人間が、理事長を素晴らしいお父さんに仕立て上げることが出来れば、子供達はお父さんの言う事をよく聞くようになるだろうし、そうやって理事長をいつも立てていれば、こちらが間違いを指摘したときに理事長も素直に話を聞いてくれるってもんだろう。そういうのって欧米人上手そうなのになって思うんだけれど、やっぱそういう風にしないのは『我々が助けに来てやっている』という考え方が根底から抜けないからなんだろうなぁ・・・

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