もうかれこれ格差社会だとかいう言葉が聞かれるようになって随分経つようになってきた。
色々な人がこの格差の問題について協議したり意見を書いたりしているけれど、そもそも格差なんていうものが今更始またわけではなくて、 古くはもっと格差があったんじゃないんだろうか?
江戸時代の日本だと大名と貧しい農民なんて、とてつもない格差だっただろうし・・・(笑)
ただ、当時はほとんどの人が貧しかったから、豊かな人を目にする機会が少なくて格差自体を感じることが出来ないくらい格差があったんだろう・・・
明治維新後だってイギリス資本家の後押しを受けて事業を始めたり、政府の要人になったりした人たちと一般庶民の生活なんて、そりゃもうかけ離れすぎていて格差を想像することが出来ないくらいだったと思う。
そう考えると、現代はすべての人が豊かになってきてあらゆる人の生活状況が想像出来るようになったり、情報手段の発達により誰がいくら儲けてどのような暮らしをしているかが解るようになっていたので、急に自分と人の違いが気になりだしたんだろう・・・
今、僕が暮らしているカンボジアは日本と比較に成らないくらいの格差社会だ・・・今日生きるか死ぬか、というくらい貧しい大半の人々と、我々なんかよりも遥かに大金持ちの一握りの権力者たち。
でも、人々は格差を感じない・・・感じないと言うと嘘になるかも知れないけれど、格差を問題にしない・・・理由は上記に書いた古い時代の日本と同じ、格差がありすぎて理解できないからだ。
ということは、今の日本のように格差社会が問題になるってことは、実は格差が広がっているのではなくて、反対に狭くなっているからなんじゃないかと思う。
では本当の格差とはなんのだろう?
本来の意味で格差を作ってしまう要因を考えるとするならば、情報、人材、マネー、の3つが主な要因だろう。
まず第一要因は情報
カンボジアに限らず途上国の貧困層の人々の行動範囲はかなり狭い。一生、生まれた村から出ないんじゃないかという人や、大都市に来てみたけれど金がないからどこにも行けないなんていう人々だ。狭いコミュニティーで生活すれば自ずと情報は少なく偏ってくるし、新たな情報源すら無いということになる。
新たな発見や気づきなどと言うものは、入ってきた情報を自分なりに新しく組み直すことで得られるものであって、決して『無』から生み出されるものではない。だから新たな情報が入ってこないってことは、発展する余地が無いということなので、日々新たな情報が入ってきている人々とは格差は広がる一方になる。
次に人材
人材と人口は比例しない。教育を受けることが出来なかった人々が大半だったりすれば、新たに何かを始めようにも何もできない。別に遺伝子解析が出来るようなスキルや、定量分析が出来るような能力は必要ない。最低限字を読み書きするとか、計算をするとかそういったレベルのスキルを持つ人材すらが少ない。
日本でも教育格差とか言われているけれど、どちらかというとこれは個体差の問題であって社会構造の問題ではない。日本で例えば何かのマニュアルを渡したら、字が読めない人が大半で困ったなんていうケースはありえないだろう・・・
最後にマネー
今の世の中あらゆるサービスを受けようとすると、マネーが無くては始まらない。人が真心だけで(気持ちだけで金は出さないってこと)出来るレベルは残念ながら知れている・・・真心で原子力発電所が建ったりはしない。だから日本では当たり前に存在している電気・ガス・水道・道路などが、全く当たり前に存在していない。
他にも保健衛生サービスや、教育、交通など全てにマネーが必要になるが、基本的に格差の最底辺にマネーが流入してくる機会は殆ど皆無に等しい。
これらから考えてみても日本に格差は見当たらない、というかむしろ日々収斂傾向にあると言ってもいいはずだ。特に一番格差をつくる要因になる『情報』は、ジャブジャブに溢れている状態だ。
ただし絶対に個体差はあるに決まっていて、収入だって学力だって容姿だって違うに決まっている・・・例えば僕は背が低くて足が短いけれど、これは誰に文句を言えばいいんだ??福山雅治と僕との格差が、鳩山政権のせいだと言ってまくし立てればなんとかなるんだろうか(笑)
お腹が空いてきたので、以降はその2に続きます♪
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