未開発による貧困

最近新たに持ち込まれたプロジェクトの調査をするため、先日の日曜日にシェムリアップの街から約30キロ離れた山裾の村まで視察に行ってきた。距離にするとたったの30キロなのに車で2時間もかかるという、とんでもない悪路を走らないと辿りつかない場所にその村はある。例によってピックアップトラックの荷台に積まれた僕とサラ&ポール、そして子供たちは『川口浩探検隊』(えっ?古過ぎる??・・・)よろしく、未開のジャングルの中にある道を突き進んでいった♪

若干インディージョーンズを彷彿させる橋(笑)

毎日リアルアトラクションの中で生活している子供たちに、ディズニーランドのアトラクションいらないんじゃないのという、冗談とも本気ともつかない話が飛び出すくらいひどい悪路の連続・・・( ̄Д ̄;;

途中、前の車がぬかるみにハマって出られなくなってしまった。カンボジアの土は粒子が細かく、雨が降るとすぐにヌルヌルの粘土状になり、非常に滑りやすく運転するのが大変な状況になる。

今回のプロジェクトはこのジャングルの中にある村に孤児院や病院を作り、更に村人たちを整頓された区画に移り住ませるとともに2ヘクタールの土地を無償貸与するといったもの。この周辺の山には大きな滝があり、そこから3本の川が流れているので水にも困らないし、元々土地が肥沃な地域なので農作物を育てるのに非常に適しているとの話だった。この無償貸与する2ヘクタールの土地で農業をさせて村全体の収入アップを図りたいというのが、今回の取り組みのテーマだ。

2年前に建てたという学校の校舎にて、村の代表者たちとディスカッションをした。

学校と言ってもこんな感じだ。

こんな山奥のジャングルの中なのに子供の数はカンボジアのご多分にもれず非常に多い。なんていうか、貧しいというより文明そのものがあまり発達していない、と言ったほうが正解なのかも知れない。ここに貨幣経済と文明を持ち込む為に森を切り倒して、住民達を区画整理された場所に移動させるという計画に、僕やサラたちは賛成できなかった。医療や教育の施設などが必要なのはモチロン理解できるし、なんとかしたいとも思うんだけれど、開発するとなればそれに関しては全く別だ。

しかもさすがカンボジアというか、このプロジェクトの予算はいくらなのかと問うと誰も答えられない。「とにかくSTEP BY STEPで・・・」という主張の一点張りだ(笑) いったいこれだけ大きなプロジェクトを、予算の概算も立てずにスタートさせよう、更には資金を他から引っ張ろうとするその根性にはおそれいるけれど、現段階で我々の出した答えは「海のものとも山のものともわからなさすぎる」という物だった。当たり前だよね。。。

どうやら聞くとろこによると周辺の土地をすでに政府関係者が抑えているので、外資が入って開発がかかれば一気に自分たちの資産が増えるという目論見もあるのだとか。こういう部分に関してはカンボジア人はしたたかだ・・・

既に住む家が存在してるのだから、新たにその家を壊して次の場所に移動する理由など全く無いし、そのために我々が資金を捻出するのはお門違いもいいところだ。さらにこのような大自然の残る美しい場所で、無粋な開発をするという名目の資金提供者にはなりたくない。もう少しなにか良い方法を考えてみたいと思っているけど、その前にこの村までもっと簡単に行く手段を考えなければならないような気がする(笑)

いやはやマジで久しぶりにハードな一日だったな~( ̄ー ̄;

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必勝法

先日からサラとポールがカンボジアに来ているのに引き続き、今度はイギリスからスティーブの一家がやって来た。スティーブは我が孤児院のウェブサイトを作成して運営管理してくれている人で、元々僕がこのウェブサイトの日本語翻訳を買って出て、僕と孤児院との付き合いがスタートした。
(参照)
Cambodian Orphanage
http://www.cambodianorphanage.org.uk/ja/ (日本語版)
http://www.cambodianorphanage.org.uk/  (英語版)

バンコクに行っていたクレアもカンボジアに戻ってきて、これで今回特?に待ち合わせをしたわけではないのだけれど、偶然にも孤児院に寄付をしている主だったメンバーが全員現地で顔を合わせることになった。みんなそれぞれ国も違うし中々直接会う機会も無い訳だから、今回のチャンスを活かして、かねてから課題になっていた孤児院の運営費用の問題を話し合おうということになった。
(参照)
寄付の限界と問題点
http://hugs-int.com/kengo/archives/1191
ちょっと真面目な話♪
http://hugs-int.com/kengo/archives/1191
フィフォン半泣き
http://hugs-int.com/kengo/archives/1194

話し合った内容は上記のエントリーに書いてあることずばりそのままの内容なので今回は割愛させていただくとして、今回のミーティングで改めて感じたことがあったから、そのことについて今日は書きたいと思う。

まずはなんと言っても西洋人と一緒にミーティングをすると、僕達が相手に言うのを躊躇する(特に僕の場合は心優しいから・・・)ような内容でも、ズバズバと言ってくれることだ♪ こうなると必然的に僕の立場は、双方の意見の調整役という一番美味しいところに落ち着くことになっていく(笑) 大体の話の落しどころなんて言うのは、このブログに書いている以前の段階で僕の頭の中には出来上がっているのだから、双方言いたいことをしっかりと主張させてしまえば、後は自然と僕が想定していたとおりに話が落ち着く以外に選択肢がなくなってくるという寸法だ。

実は自分の立場を、この『ジャッジする』という立場に持っていくのが、あらゆる場面で絶対に負けることの無い戦法の一つだと思う。議論だろうがケンカだろうが、はたまたスポーツの試合だろうが裁判だろうが、絶対にレフリーや裁判官が負けることは無い。名づけて『闘わずして勝つ戦法(笑)』。百戦百勝の必勝法だ( ̄▽+ ̄*)

更に今回の議論で僕の中でかなり明確になってきたのが、東洋文化と西洋文化の違いを知り、双方の考え方を理解できるのは、日本人である僕たちくらいなんじゃないだろうかって事だ。『あれもこれも一緒』にしてしまう東洋文化と、『それとこれとは別』と考える西洋文化では、中々意見が食い違いを見せて双方が感情的になってしまいやすい。そしてプライドを見せる場面やこだわる部分なども双方が全く違う。ところが完全な東洋文化が根底にあるにもかかわらず、超西洋的な文化にどっぷりと浸かっている、最先端融合文化圏『日本』で生まれ育った僕には、お互いの言いたいことや気持が何の違和感もなく理解できる。大げさかもしれないが、ここにこれからの日本のあり方を見たような気がした。

日本の世論は、兎角アメリカに付くのか中国に付くのか、という二極論点で論じられていることが多いんだけれど、僕はどちらに付くとかではなくて、両方の仲裁役という一番美味しい部分を日本が掻っ攫ってしまうのが最高にいいんじゃ無いかと思う。なんのかんの言ってもアメリカは一方的に相手を攻め立てる能力が高いだけだ。片や中国も大国になって来たとは言え、西洋文化と馴染むはずのない長い歴史を有している。地理的にもこの両国に挟まれ文化的にも東西の文化が入り交じり、当たり前のように両方を理解することが出来る、生まれながらにしてバイリンガルな日本人の役割は、この全く正反対な両国を上手くコントロールして世界をリードしていくことなんじゃないのかな~、なんて強く思った今日のミーティングでした♪

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常識の違い

うちの孤児院の理事長であるフィフォンパパは18歳になった時から軍隊に入り、以降22年間を戦争と共に過ごし、最後は3000人の部隊のトップにまでなった叩き上げの軍人だ。 ポン・セナという名前も国王からもらった名前だそうだ。 そして軍人として古き良きカンボジアの精神を持っている彼は、契約書などよりも約束の方が絶対だ。

彼は自分が一度かわした約束は、どんなに自分が不利なものだったとしてもそれを反故にすることはない。 今でも農村地帯などに住んでいる人々は、全ての商売なんかの契約に関しても概ねそのような風習が生きている。 日本もアメリカ型契約文化が入ってくる以前はきっとそうだったはずだ。  だから理事長が役人の約束を信じてしまうのを責めることは出来ない。 そういう文化と常識で今まで生きてきた人だから・・・ 僕自身もここまでに無用なトラブルで引っ張られるようなことがなければ、理事長の言葉を信じてそのまま帰路に着いていただろう。 できる事なら相手の文化を尊重したいとも思うし。 でも、もうそんなことを言っているような余裕は残されていなかった。

「絶対に大丈夫だし、そもそもそんな受領証なんていうようなものは存在しない」という理事長の言葉を無視して、フィフォンにパスポートセンターに電話を入れさせた。 パスポートセンターの担当役人が言うにも、確かに受領証のようなものは存在しないし、領収証も必要な人にしか発行していない。 領収証にいつパスポートを受け取ることが出来るのかも明記されていないってことだった。 でもここまで来たら自分の目と耳で確認して、せめて金を支払ったという証明になるものくらい持って帰らなければ納得できない。

僕はすぐさまフィフォンだけを連れてもう一度プノンペンに戻ることにして、他の連中には先にシェムリアップに帰ってもらうことにした。 と言っても僕達がその時いた場所はバス停などあるはずもなく、日本と違って流しのタクシーなんかも無い。 車をチャーター出来ないのか聞いてみたけれど、それも無い。。。 かと言って僕のバイクで戻るのもシェムリアップに夜帰る事になるのを考えるとかなり危険だ。

なんてたって道が悪い上に、夜になれば真っ暗闇なんだから(笑)

そんな訳で、その時たまたま目の前の道を通りがかったプノンペン行きのバスの前に出て無理やり停車させて「運賃を払うからここからプノンペンまで乗せて行ってくれ」と交渉し、無事にプノンペンまで戻る手段を確保♪ ラッキーなタイミングだった。

プノンペンに戻った僕とフィフォンはすぐさまオフィスに行って、担当の役人にクドイくらいパスポートを発行してくれる日にちを確認し、用意してもらっていた領収証を受け取った。ところが信じられないことにこの領収書、通し番号や名前、日付を明記した上で政府のスタンプまでついてあるのに、肝心の受領金額の部分が空白のままだ・・・今回僕達は日本に行くまでの日数がなくなってきているので、通常1ヶ月かかるパスポートの発行手続きを1週間でやってもらうコースを選んでいたんだけれど、ようはその「特別発行にかかる手数料」は領収証に書く事が出来ないというのが理由だった。

早い話、パスポートセンターはパスポートの発行1冊につき120ドルを政府に納めさえすれば、後は誰にどのタイミングで発行しようと、それはパスポートセンターの裁量の範囲内ってことだ。だから金払いの悪い奴は発行がどんどんずれ込むし、金を払えばいくらでも早く優先してもらえる・・・ 公共サービスの中にまで恐ろしいくらいに資本主義が生きている(笑)

何はともあれ5日の木曜日に必ずパスポートが発行されること、その際にはもう子供たちを連れてくる必要が無いことを確認し、そして金額こそは明記されていないが、確かにパスポートの代金を支払ったという証明くらいにはなる領収書を手にしたことで、今回のプノンペンでの目的は全て果たしたと判断することにし、こんどこそ正真正銘、シェムリアップに向けて帰ることにした。

木曜日に無事パスポートが手元に来ますように・・・

 

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