日本人が英語を話すのが苦手だというのは、もはや全国民が認識している共通の見解だろう。僕が思うにこの現象の大きな原因は心の何処かで『英語を話すことが恥ずかしい』と多くの日本人が感じているからなんじゃないかと思う。例えば日本では、Appleはアップルであって、これをエポーなんて発音した日にゃ軽いイジメの対象になりかねない(笑)
こうやって小さい頃からカタカナ英語が刷り込まれていて、これを本来の英語的な発音で話すと鼻持ちならない嫌なやつになりかねないので、どうしてもカタカナ読みで話そうとしてしまう。でもカタカナ英語の発音が正しくないことはみんな知っている。そんなわけで『うまく英語を話せないのは恥ずかしい、でもうまく話すのはもっと恥ずかしい』という、ちょっと屈折した感情が無意識下に刷り込まれているので、いくら文法を勉強しても単語を覚えても中々話せるようにならない。
日本が誇る「恥の文化」の弊害ですね、ある意味。
さて、そんな日本には「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」ということわざがありますが、カンボジア人は他人にモノを聞くということをとにかく恥ずかしがります。もうこれは、傍から見れば病的なまでに嫌がっているようにしか見えないレベルです。なんせ、彼らのプライドは「人からバカだと思われたくない、貧乏だと思われたくない」という部分に完全にフォーカスされているので、例えば相見積もりを取るというようなことすらも嫌がります。見積もりを取るだけ取って買わないのは「買う金が無いと思われてしまう」と思っている。まぁこれ、実際に値段だけ聞いて買わなかったりすると、本当に「あいつ金ないくせに」みたいな陰口を後で言われたりするから始末に負えないのだが・・・。
さらに彼らにとって、さっぱり理解できない話をされても、全て「分かった、そんなこと知っている」となる。行き先を告げて「OK、乗ってくれ!」と言われてトゥクトゥクに乗って、道に迷われたりしたことなんて数知れずだが、彼らにとっては「知らない」「わからない」ということが何よりも恥だから絶対に言わない。
こんなの常識的に考えれば、何をバカなこと言ってるんだと思うんだけど、冒頭の話題の日本人にとっての英語のようにDNAレベルに刷り込まれた恥の感覚のようで、どうにもこうにもこの刷り込みを外すのが簡単ではない。聞かなきゃわからないんだし、そうしないからいつまでも無知なままなのに、その無知を悟られたくないから聞かないというジレンマに陥っている。しかも、知らないことをあたかも知っているように堂々とデタラメを言うから、結局話がどんどんと迷宮に向かって突き進んでいく。
そう、まるで行き先をちゃんと確認して乗ったはずトゥクトゥクが、どんどん有り得ない方向に走り続けていくように・・・。
そんなわけで、日本人の英語も恥ずかしいという感覚を無くしてデタラメでも話し続ければ上手くなるし、カンボジア人も恥ずかしいという感覚を無くしてドンドンと質問攻めにすればバカだと思われなくなるんだろうけど、やはり「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、難しいんでしょうねぇ。っていうか、他の国の人たちはどうなんだろう?