僕の自己紹介

AGRIBUDDY LTD.  C.E.O.

数年前までは想像もしていなかったカンボジア移住。
直感とノリを信じて来てみれば、予想もしなかったような展開や多くの仲間達との出会いを通じ、毎日がネタとチャンスの宝庫のような暮らしになりました。

今、何とも言えない閉塞感に満ち溢れいている日本から、新たなチャレンジをしようと世界に飛び出したいと考えている人たちと、多くの可能性がある途上国で飛躍のチャンスを待ち構えている現地の人々が、共に手を取り合うことによって、それぞれの人生を素晴らしいものに変えるためのお手伝いが出来れば良いな、と、そんな想いを胸に日々を生きています。

ここまでのストーリー

幼少期を奈良県の生駒市で過ごすが、父親の事業の失敗を受けて大阪のベッドタウン吹田市に夜逃げ。
ずっと夫婦共働きの家庭で育ったために、どこにでも一人で出かけて行く、また束縛を受けすに何でも自由にやってしまうという、現在の人格形成が出来上がる。
中学卒業後の話は、下記の僕について書いたストーリをぜひお読み下さい。

留学

僕は中学卒業後、両親の勧めもあってアメリカ・カリフォルニア州アナハイムにあるウエスタン・ハイスクールに留学することにしました。その時点での語学能力はスチュワーデスに問いかけられた「coffee or tea?」が聞き取れないレベル・・・さらには留学ビザで入国しようとしているのに、イミグレーションでも全く英語が話せず別室に連れていかれて、カタコトの日本語を話す人に1時間くらい根掘り葉掘り色々聞かれてようやく入国出来たのでした(笑)

当時の日本はバブル景気の足音が大きくなりつつあった時代のおかげで、サラリーマン家庭なのに無理して留学させてもらった僕と違い、他の日本人はみんな会社経営者などお金持ちの子供たちばかり。しかも中学時代にやんちゃだった僕は、交換留学で来ている勉強が優秀な日本人達ともあまりソリが合わず、友達を作るには英語をどうにかして理解出来るようにするしかありませんでした・・・結果的にはそれが今の僕にとって本当に大きな力になっているのだけれど。

僕がそこから学んだ一番の強みは『言葉がわからなくても、どうにかして伝えてしまう』という技術と根性でしょう(笑)

最初のホストファミリーは、口は悪いけれどとっても厳しくて熱い人でした。ところがある日、ご両親が亡くなられたとかで、ニュージャージーに引っ越してしまうことになりました。その後僕の住んでいた家に新たに越してきて、僕の面倒を見てくれるようになった若いホストファミリーの質がかなり悪かった・・・

学校から家に帰るとリビングルームからマリファナの煙が立ち上っていたり、テーブルの上に白い粉(コカイン)でラインがひかれたままになっていたり、夜中に夫婦喧嘩をしたままベビーベッドに寝ている赤ちゃんを放ったらかして、二人ともどこかに出て行ってしまったり・・・

なにより僕が辛かったのは、家に全く食べるものが無い時があったことです。僕の両親からホストファミリーに送ってくれている生活費は、月初めの数日間の食費に費やされ、その後冷蔵庫に入っているのはビールと牛乳だけ。育ち盛りの時に、あのアメリカに住んでいるのにも関わらず、見る間に体は痩せて行き、ついには学校で体がしびれて動けなくなり救急車で病院に運ばれてしまいました・・・

11thグレード(高校2年)に上がる前に無念の帰国、中学卒業時に55キロあった体重はその時45キロを切るくらいに減ってしまっていました。

起業と夢

日本に帰って数カ月、ようやく体重も戻ってきてもう一度アメリカに帰るつもりをしていたのですが、その頃にはもうすでに日本にも彼女が出来ていたり、学校をやめてしまった友達がいたりと、毎日遊ぶことに事欠かなくなってしまっていた僕は、とうとうそのままアメリカに戻らない決意をしてしまったのです。

人生に『もし』は無いと言うけれど、それでも尚、もしあの時アメリカに戻っていたら僕の人生はどんな歩みをしていたんだろう?と、今でもふと思うときがあります。でも、たとえどんなに違った道を歩んでいたとしても、きっと今と同じようなことをしているんだろうなとも思います・・・

結局僕は両親の期待を大きく裏切って『中卒』のまま、仕事を始めることになってしまいました。お父さんお母さん、今更だけど本当にごめんなさい。

学校を辞めて早々と働き始めた友人たちは、肉体労働やアルバイトでバイクや車を手にいれていく・・・そしてもちろん僕も・・・

いつしか僕は、フェラーリに乗って海外旅行に年2回は行って、北新地のクラブで飲んで彼女をたくさん作って、なんていうとってもわかりやすい夢を見るようになっていた。

そんな10代も終わりそうなある日のこと、知り合いの人から金融屋で働いてみないかと誘われました。僕が何よりも絶対に嫌だったのは、ヤクザのような組織に入れられたりすることだったので、注意深く色々と話しを聞いてみたのですが、そこは大阪府内に20店舗ほど展開している中堅どころの会社でした。もしかしたら新しい経験が出来るかもしれないと思った僕は、その会社に就職することにしたのです。

貸付から顧客管理、未収金の回収まで、果ては社長の送り迎えや上司の馬券購入まで・・・もしかしたら僕の今までの人生で一番働いた時期かもしれません(笑)そうやって毎日の業務をしていたある日、いつものように社長を自宅まで送り届けている時に、僕はその社長にこう言われました。

「北浦くんもうちの会社で一生懸命頑張って、いずれは30坪くらいの家を建てれるように頑張ってや!」・・・・・。正直言って馬鹿にされているような気がして吐き気すらしました・・・家の大小の問題ではないんです。会社を一緒に大きくしようとか、次にこんなことに挑戦しようとか、なにか将来に希望を見せて欲しかったのに、僕が今から頑張って届く未来がそこにしかないっていうことに、一気にやる気が失せてしまったのです。

もうその時すでに貸金業が儲かるということを存分に知っていた僕は、少しずつ自分のお金を知人に貸したりしながら独立する日を夢見ることになりました。程なくして僕に資金を提供してくれる人が現れたりし始め、23歳の時に自分で金融会社を設立して独立、持ち慣れない金を持ち「若いのにスゴい」などと周囲におだてられた僕はすっかりいい気になっていましたし、数年前に夢見ていたフェラーリも新地のクラブ遊びも海外旅行もたくさんの彼女も・・・全て簡単に手に入ってしまったのでした

出会い

実はこのころ、いずれ僕の人生を変えることになる人と知り合っている・・・、そのうちの一人は後から出てくる長江さんという人です。

僕が当時お金を貸していた顧客が、ある日「新しい勤め先に変わったのですが、そこの社長が若くてスゴい人なんですけれど、給料をちゃんと支払ってくれないので返済が出来ません」と言ってきました。「そんなロクでもない社長、俺がしっかり話をつけてやる」と言って訪ねていったのが、当時まだ上場する何年か前の長江さんの会社でした。

もちろんその客の口からでまかせの嘘だったにも関わらず、長江さんは彼の給料から僕の借金の返済をさせてくれるという約束をしてくれ、毎月返済金を受け取りにいくという奇妙な関係がスタートしました。まぁそんな関係も、その客が長江さんの会社の金をたっぷりと使い込んだことが発覚し、あっさり終りを迎えたのだけれど(笑)

あの頃の僕は遊びの絶頂期だったのに対し、長江さんは恐ろしい勢いで仕事をしているような人だったから、たまに会って話をしても仕事の話ばかりしているのを見て仕事のことばかり考えて、なんて面白くない人生を生きているんだろう・・・』とか思っていました。そんな風だったからいつしか距離も離れて行き、たまに共通の知人がいるということが判明したときに顔を見かけたり、話をしたりするような関係になっていきました。

絶頂期と不安

僕たちはスーパーカー世代なので、とにかく子供の頃からの憧れがランボルギーニやフェラーリといった、すっごく速そうな車でした。そんなスーパーカーを手に入れると、次に乗ってみたくなるのがサーキットを走っている本物のレーシングカーでした。

そうは言っても、さすがにレーシングカーは誰でもすぐに乗れるような代物では無かったですし、友人に誘われるままにレーシングカート(ゴーカートのようなもの)で遊ぶようになりました。ところがどうやら僕はけっこう運転がうまかったみたいで、適当に出場してみたレースでドンドンと結果が出てしまい、また勘違いすることになってしまったのです・・・『俺ってスゴイかも』って(笑)

その頃にはレース関係者の知り合いも何人か出来ていて、地方選手権のレーシングカーなら自分で手に入れてレースに出ることが出来ると言う話を聞かされて、すぐさま参戦を決意したのですが、その地方選手権に参戦中に今度は僕の知人から「翌年の全日本GT選手権という、日本で一番人気のあるレースに参戦してみないか」と声をかけてもらうことになりました。

ここでも又、数年前に夢見た、というかわざわざお金を払ってまで観に行ったレースに自分自ら出場するという、レーシングカーに乗ってみたいという夢からするといささか過剰な形で夢が叶うことになったのです。

ところがその裏では、僕の本業である貸金業界には厄介な問題が巻起こりつつありました。自己破産者の急増と闇金などの過剰な取り立て問題です。そして同時に僕自身も何とも言えない大きな不安感を抱え始めていました。確かに毎日はとても楽しかったし、他の人から見れば殊の外充実もしていたはずなのですが・・・なのに毎日が不安で不安でしょうがなかった・・・

後になって気がついた事なのですが、その不安感の原因というのは新たな夢が見えなくなってしまった事だったのです。そう、その時点が自分で自分の天井だということに気がついてしまっていたんです。今の、今までのやり方では、けっしてそこより前に進むことができない迷路の突き当たりに自分が立ってしまっていることを、僕の心は誰よりも正確に知っていたんだろうと思います。

苦難の日々

僕にとって最もつらい時期がやってきました。

日増しに増えるヤミ金被害者と呼ばれる人々と、弁護士から届く破産受任通知書。どんな理由があれ、僕たち貸金業登録をして事業としてお金を人に貸している者は、弁護士からの受任通知があると直接本人に連絡を取ることが出来なくなる。多いときには数十通の受任通知がポストに入っている日もありました・・・これだけで数百万円が合法的に回収不能になる、要は踏み倒されるわけです。

世間では貸金業者が悪者で、お金を借りて返せない人が弱者で被害者だというように報じられているけれど、僕たちも自分自身が人から借りてきたお金などを貸して、それで生活をやりくりしているんだから、実際のところ弁護士から封筒1通届いただけで、何十万円ものお金が返してもらえなくなるってことは、本当に辛く悲しいことでした。日々減り続ける貸付残高と収入、それでも僕に資金を出してくれている人には、絶対に利益をもたらさなくてはならない。このままでは、何とかしなければやっていけなくなる。

そんな焦りから、やったこともない商売に手を出してみるけれど、そんなに簡単にいくはずもなく赤字を垂れ流してあえなく終了・・・もがけばもがくほど深みにはまっていく。

僕はこの当時『毎日チェーンの外れた自転車を漕いでいるようだ』と表現したことを、今でも鮮明に覚えている。

やはり生き残る道は『本業でしっかりと利益を出す方法を考えるしか無い』と考えた僕は、僕たちを苦しめる原因となっているヤミ金業者と闘うことを決意したのです。ヤミ金業者が無茶苦茶な金利を取ったり、暴力を振るったりするから、今まで上手く僕たちと付き合ってきた顧客までが返済不能になって弁護士の元へ相談しに行ってしまう。それならば、僕たちの顧客が弁護士に相談に行く前に、ヤミ金から借りている借金を返済しなくていいようにしてあげれば、その顧客は今まで通り僕たちといい付き合いをしてくれるだろう・・・

そう考えた僕は、ヤミ金撲滅と債務者救済をうたったNPO法人を立ち上げました。このNPO法人は、当時の僕の子会社社長を理事長にして設立して、ヤミ金に手を出して困っている顧客を会員にして、毎月1万円の会費を支払ってもらうことを条件に、次々とむちゃくちゃしてくる闇金業者と交渉して回った。

ところが僕の読みが甘かったのは、ヤミ金のキツイ追い込みから逃れて楽になった会員(僕の会社の顧客)が毎月の会費の支払いをしてこないことと、子会社の社長をNPOの理事長にしてしまったことでした。喉元過ぎれば熱さを忘れる、ということわざのとおりですよね。

これに業を煮やした僕たちは、会費の支払いをしてこなかった会員に対して会費の支払いを強く迫って押し問答になってしまい、相手を突き飛ばした際に怪我をさせたという罪で逮捕されてしまったのです。

葛藤

ちょうどこの当時は、指定暴力団山口組の組長が変わった時だったらしく、警察内部でもヤクザ関係者を些細な理由でもいいからとにかく逮捕しろという号令がかかっていたようで、若くて強面な連中がやっている金融屋は暴力団員に違いないと思われていたらしい僕たちは、大阪府警の暴力団対策係によって逮捕されたのですが、取り調べれば違うということはすぐにわかります。ヤクザでもない素人を暴力団対策係が相手していても意味ないですし、そもそも怪我といったって「実際に怪我をしてるのか微妙なレベル」だったし、相手にも非がある内容なので、すぐに帰れるだろうと思っていた僕はさらに読みが甘かった。

闇金のリストを大量に持っていた僕たちは「闇金グループのリーダー」に違いないと推測されたようで、身柄を拘束されているうちに僕たちの顧客に対する徹底的な聞き込み捜査が開始されたようでした。そうして、僕の会社から借りている2名の顧客の支払う金利とNPO法人の会費が、同一人物(子会社社長兼NPO理事長)に支払われているということは、会費も金利とみなすという判断をされてしまい、会費を違法金利と認定されて再逮捕されてしまうことになってしまったのです。http://news.a902.net/a1/2005/1129-8.html

万事休すです・・・

ここから僕は警察に100日間もの間身柄を拘束されることになりました。

どうしてこんなことになったんだろう、これからどうやって生きていけばいいんだろう。逮捕されたという事実に対する原因だけを考えるのならば、法律違反をしてしまったからだという話になるのでしょうけれど、それはほんの表面的な物語でしか無いような気がしていました。なにかもっと本質的な部分をきちんと考え直さなければ、今、自分が迷い込んでしまっている迷路から抜け出すことが出来ない。

幸いにも『考えるという行為』だけがその時の僕に許されている自由でした。

一通りの取調べが完了し、その後の裁判の判決を待って自分自身の処遇が決定するまでの間は、保釈という制度を使って自宅から裁判所に通うことが出来る制度があります。僕のほぼ全財産が入っている会社の通帳や、まだまだ返してもらわなくてはならないお金がたくさん残っている書類や顧客には一切触れないことを条件として、100日間の拘禁生活を過ごした後にようやく自宅に帰ることが出来た僕にはさらなる試練が待ち受けていたのでした。それは、どうやってこれから生きていけばいいのかという現実問題。

10代の頃から貸金業一本で生きてきた僕が、今回の事件をきっかけにもうその世界に戻ることは許されない。
しかも、もしかすると裁判の結果次第では、数年間の刑務所暮らしを余儀なくされることになるのかも知れない。

本当に何をしたらいいのか、見当すらつかなかった。誰に会えばいいのかも分からないし、こんな状態の時に、もし素晴らしい出会いをしたところで、いったいその人と何を進めていけばいいのかすらもわからない。

僕は裁判の結果、刑務所に行くことになってしまったら死のうと思っていました。「これからも長い人生、たとえ刑務所に行っても数年で終りじゃないか」と言ってくれた友人もいたけれど、そういう次元の問題では有りませんでした。

僕が一番怖かったのは、それこそこれからも長い人生、もう自分に未来が無いんじゃないだろうかっていうことだったのです。『これから先、自分の思うような未来を生きることが出来ないのなら、死んでしまった方が楽だ』。その頃の僕はそのように考えていました。

ところが、その経験を通じて僕はある重大な事実に気がつくことになる。それは人間にとって一番の恐怖は、未来が見えないことなんじゃないだろうか、ということでした。もし、神様だとかいう存在がある日突然目の前に現れて「お前の人生は今日を限りに、これから先はずっと落ちていく一方だ。この先何一ついいことなんて無いから覚悟しろよ」って言われたら、どんな気持ちになるだろうか。

もしかしたら僕の今までの生き方は、人の未来の夢や希望を摘みとるような生き方をしてきたんじゃないだろうか・・・

逮捕から約1年かかった裁判も、いよいよ判決の日を迎えることになりました。

検事から出されていた求刑は僕の弁護士が想像していたより遥かに重く、8割方は刑務所に行くことになるのではないかと予想されていましたが、それでも僕は自分の未来を信じていました。絶対にそうはならない。僕はその決意と信念を確定的なものにして、未来をも自分でコントロールする証を創るために、判決の前日に新しい住まいに引越しをしました。

はたから見れば、とってもバカな験担ぎなのかもしれないけれど、そうやって力任せにでも僕は自分の未来をもう一度自分の手の中に取り戻したかったのです。

そして結果はまた一つ、いえ、もう一度、僕の未来を自分の手元に引き寄せることが出来た。本当に、本当に嬉しかった。僕の稚拙な表現力では、この時の気持ちをどのように伝えていいいのか分かりません。ただしその反面、現実的な問題は依然何も解決したわけではなく、会社の通帳と僕のほぼ全財産は『犯罪収益』と認定され全て没収となり、ほぼ一文無しになってしまいました。もちろんもう二度と貸金業をすることも出来ないし、残りの貸付金を回収することも出来ません。

早い話が、僕は学歴・資産・職は無いが、あるのは前科だけという、この現代社会においてかなり生きていきにくい状況に陥ってしまったわけです。

それでも僕がどうにかやっていくことが出来たのは、僕を支えてくれる友人たちがいたからでした。幸いにも交渉力には自信があったし、その点については僕の友人たちも良く知ってくれていたので、色々な仕事を回してくれたりして、なんとか僕がもう一度社会で立ち直るきっかけを与えてくれた。この裁判の結果もそうだったけれど、チャンスをもらうことが出来るっていうのがどれだけありがたい事なのか、恥ずかしながら僕はようやくその時になって知ることになったのでした。

そんなある日のこと、久しぶりに長江さんから電話がかかってきました。何年か前に会社を上場させていた長江さんは、今回自分の会社を売却することを決意し、その際僕と以前一緒にやっていたことがあるダイビングショップの清算金が残っているようなので、精算したいという内容の電話でした。長江さんが上場してからというもの、僕が彼と付き合いがあるということを知っている人たちから「ぜひ紹介して欲しい」という話をされたことが何度もあったのですが、なぜかそれはとても筋違いなことだと思っていましたので、僕から電話をすることはそれまでただの一度も有りませんでした。ですから、長江さんとはずいぶん久しぶりに話をしたことになります。

その後もなぜか共通の知人から名前を聞くことが多くなり、ある日僕が長江さんに聞きたいこともあったので電話をかけてみると、今はシンガポールに住んでいるんだっていうことでした。

昔見た夢と希望

僕もいつかは海外に移住したいという夢を持っていました。それはけっして日本が嫌いっていう意味ではなく、この広い世界の色々な場所で生活してみたいという漠然とした夢でした。それをもうすでに叶えている人が僕のすぐそばにいるのなら、実際に会いに行かない手はないでしょう。

そう思った僕はすぐに長江さんに電話を入れて「シンガポールに遊びに行きたい」と言ってみました。すると彼は「どうせこっちに来るならシンガポールだけでは面白く無いので、どこか近場の国に一緒に遊びに行こうよ」と言い始め、けっきょくお互いに行ったことが無かったカンボジアに行ってみることに。

これは今だから言うのではなく、その時僕はこのカンボジア行きで何かが大きく変わるという確信に近い予感を持っていました。ただ、このような流れになるとは予想だにしていませんでしたが(笑)

 

僕もいつかは事業に成功して金持ちになって、社会貢献活動のような事をしてみたいという夢を昔から持っていました。中途半端になってしまっている英語も、日本にいると使う機会もないので、いつかは外国の人々と英語を使って会話をする仕事がしたいと思っていました。自分がスゴい人だと思える人、尊敬出来る人たちと、競いあって仕事がしてみたかった。

「その夢を叶えるために、どうやって稼いだらいいんだろう?」僕は長江さんに疑問をぶつけてみました・・・

答えはいたってシンプルなものでした。「それをやりたいのなら、今すぐに始めればいい。金持ちに成らなくたって社会貢献活動は出来るし、もっと言えばどうやって社会貢献活動をやりながら、自分も稼いでいくのかということを考えてみればいい。いずれやりたい目標があるなら遠回りせずに、最短距離でそれが出来る方法を考えるべきだ」

僕にとっては目からウロコの発想でした。その時点でいったい僕に何が出来るのか、さっぱり判らなかったけれど、僕にそれが出来るということだけは、はっきりと認識することが出来た瞬間でした。

未来へ

そして僕は今カンボジアに住んで、社会貢献活動として孤児院を支援しながらマイクロクレジット事業を立ち上げています。僕が唯一誰よりも経験のある貸金業を通じて、今回はどのように社会を発展させより多くの人々を幸せにすることが出来るのか、ということへの挑戦でも有ります。

僕は今まで自分が『10』儲けるためには、誰かが『10』損しなければならないと考えていました。しかし今、このように奪いあうのではなく利益を与え合うことによって、それまでに存在しなかった新しい価値が生まれる、ということを知りました。

人は自分の未来が明るければ、今日、今この時点で幸せになることが出来るということを知りました。

チャンスを与えられることの素晴らしさ、そしてそのチャンスを共にモノにして行く過程の楽しさを知りました。

ずいぶん以前に僕が描いていた夢、英語を使った仕事、海外に住むこと、社会貢献活動を行うこと、豊かな生活を送るためにビジネスをすること・・・それらが今、全て現実のものとなっています。そして僕が心から尊敬出来るような、素晴らしい人々との出会いを重ねています。このように自分の未来がドンドンと現実になっていく時間を、もっともっとより多くの人と共有したい。たくさんの人々と協力しあうことによって、より大きな夢、目標、輝く未来を手に入れていきたい・・・手に入れられるように協力したい・・・

僕は他の多くのスーパーマンのような経歴を誇る成功者の方々とは違い、特別な人脈も、学歴も、資金力も、バックボーンも何も有りません。あるのは健全な体と未来を考えることが出来る力、そして前科だけです(笑)

そんな僕でもこれだけのことが出来るのですから、これを読んでくださった皆様には、もっと大きな強い力が備わっているはずです。ぜひそのような皆様と、手を取り合うことによって、素敵な未来を創造していきたいと心から願っています。

長い自己紹介になってしまいましたが、ご精読ありがとうございました。

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